Cogito, ergo sum
| 2-21-2004 |
例えばあなたが日本以外のどこかの国にいるとします。アメリカでもいい、イギリスでも、フランスでも、アフリカ、中国、韓国、トルコ、どこでもいいです。とにかく日本以外のどこか。そして、ふと道端である人に、“あなたは何人ですか?”と聞かれました。あなたは、“日本人です”と答えます。これを読んでる方は大体が日本人でしょう。ただ、ほかにもアメリカの国籍を持ってる人はアメリカ人と答えると思います。韓国人かもしれません。大まかに、その聞かれた人は、パスポートを発行した国を指すのではないかと思います。 さて、ここで質問。 何人ですかと聞かれた後に、例えばこんな質問をされたとします。 “証拠はありますか?” あなたはなんと答えますか? 私がアメリカに来て1年半以上が過ぎた。英語が立派になったとも言えなくはないが、少なくとも不自由はしなくなり、生活もかなり慣れてきた。私はアメリカの大学に日本の大学から転入した。そして、変な話だが、アメリカに来てからあらためて留学をした理由を考えてみてもすぐにパッと浮かんでこないことに気がついた。意外なことにこっちに来たほかの人の中にもそういう人が多数いるのである。もちろん留学をするにいたっては誰だって決意や理由をもちあわせているが、案外きてみるとそういう決意というものがあやふやというか、勢いづけということであったのかなと思う。人生の決断なんて案外思い込みによる事が多いかもしれない。よいか悪いかは別にして。 多くの人種が複合し構成しているこの国に来て、しばらく住んで思ったことが始めに書いたような疑問であった。日本以外の国、特に英語圏を旅したことがある人なら経験があるだろうが、挨拶のついでに必ず来る言葉は、“Where are you from?”である。もちろん意味は、“どこから来た?”であるが、この言葉の意味は範囲が広い。アメリカ国内であれば州を指し、Asian系で、または、見かけよりアメリカ以外の国からきたと思われる人には国を指す。私がいつも言うのは、“I’m from Tokyo”、“東京から来た”だ。大体これで通じる。私がいる町は小さい町なので多くの人が、大きな街から来たねと言ってくれる。 さて、ここで私が言いたいのは街がうんぬんではなく、“東京”から来た、つまり、“日本”、“Japan” から来たということについてである。例えば、私がアメリカ人(というとかなり範囲が広いので白人としとく)に“I’m from Tokyo” ではなく、“I’m from Korea”、または、”I’m from Taiwan” と言ったとしよう。100%の確信を持って私は言えるが、彼らは私を韓国人または、台湾人と思うのである。だからどうしたと言われればそれまでだが、この発見は少し私に奇妙な違和感をおぼえさせた。つまり、人種というのはかなり“ごまかせる”のである。“ごまかせる”ということは、つまり“あいまいである”ということだ。(語弊がないように、警察とか税関は別にして。) 人は誰でもIdentityを持っている。日本語に訳すと、いつも変だと思うのだが、自己同一性。簡単に言えば人格とでも言えるのか。人格を持たない人はいないだろう。誰にでも私は誰々だというこができる。ただここで重要なのは“誰々”の部分を証拠立てるものが何であるかだ。多くの場合それは社会的相対関係によって成り立っている。例えば、名前。あなたが、“私はOOOOです”、と言えばその人の周りにいる人は、あなたの顔を思い浮かべることができるだろう。Passportにはあなたの顔写真がのり、免許証にもあなたがあなたであることを証明する。つまり、社会的な要求、または立場によってあなたは自分が誰であるかを立証することができるのである。ただ例えばそれら証明するものがなくなったとき、あなたはどうやってあなたと証明することができるであろうか? 私がここで話したいのは、つまり私は誰なんだという事ではなく、その人格形成の一要素である国についてである。人は誰でも、スパイやいわくつきの人は除いて、国に属している。つまりは誰でも“何々人”なのである。私は日本人だし、日本人系の顔をしている。ただ上のような疑問、つまり、“何が私を日本人たらしめているのか”と疑問を持つことによって色々考え始めた。 例えばこういうこと。 “私が日本人なのはPassportや免許証にそう書いてるから”でもそれは紙片上のことでしかない。 “私が日本人なのは日本語を話すから”これはかなり有力な理由になり得るが、金髪のブラッド・ピットのような人間や、マイケル・ジョーダンみたいな人でも日本語は喋れる。つまり、言語はあなたを日本人たらしめる証明ではなくToolでしかない。私は日本語が使える人間ですという事実でしかないのである。 “私は日本に住んでいました”これはあまり意味をなさないと思う。日本に住むのは日本人でなくとも住めるからである。 と、この他にも宗教、文化、音楽等色々考えてみたが、私を日本人たらしめる証明がかなりあいまいなことに気づいた。社会的立場を用いる以外に自分を日本人であると証明すること。考えなくてもいいような事だが、かなりしつこく頭の中でふとした瞬間に思いつくことである。 Internetが発達し、短時間に他の国々に行くことができる時代に国という概念はかなりあいまいになっている。それが時代の変化なのか、それとも単にその概念自体が重要ではなくなってきているだけなのか。非現実的な例えを使って一体自分は“なにじん”なのかと考えてみたが、そのような要求、つまり問題提起をされる機会はあまり日常では起こらない。結局、生活には支障をきたす問題ではないのだが、つまりは日本人である自分が何を持ってそのIdentityの一要素である“国”というものを意識するのかという疑問は、いつまでたってもおさまらないのかもしれない。少なくとも私は、“自分はなにじんでもない”と言い切る人に出会ったことはないため、その答えはまだ見つかりそうにもない。
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| 作者紹介 |
Kenichi
男、22歳(1981年生まれ)、東京出身。アメリカで留学中。専攻はBusiness. 基本的に色々なものに興味あり。人間、本、音楽、政治、経済、Art、Sex、Drug、暴力。人間が絡む現象、または営み。
一言:人は人との関わり合いの中でしか自己を見出すことはできない。独りよがりな意見も出ると思いますが、どんなFeedback、意見でもいいので、僕のコラムを読んで何か思いついた方はMailを送ってください。(文章の良し悪しについてもよろしく)(Mail to kenichih0705@hotmail.com)
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